年を重ねてくると慣れが生じてきて法務も習慣というか、今していることが当たり前となっています。なぜこういう手順で、なぜこのお経をといった部分はあまり考えなくなってしまう、小僧の時に習って今忘れている感覚があります。だからこそ体が覚えている習慣になっている部分でもあるともいえますが。
先日ある法要の前に参加の方から、お経の中の言葉やその意味、なぜこれを唱えるのか、といった基本的なことをもっと説明してほしいという声をいただきました。思わず「耳の痛い話です。」と正直に答えました。また「お坊さんはもっと昔は勉強していて知識や知恵が頼りになったもんだ、今の坊さんは、、、、」とド直球を投げ込んでいただきました。あぁ、自分はまだまだ努力が足りないなと素直に反省しました。
例えばお経を諳んじること、つまり暗記することや所作や声の出し方といった技術的な部分は、そうしたことを習った僧侶側がリードして法要が進みます。しかしお経の中身であったり、その所作がなぜこの法要には必要なのか、そういった部分はあまり説明が参加者に対してなされません。こうした事情からとかく法要はどこか一人よがりな印象を持たれているのかもしれません。かといって話の長い坊主は嫌われるというジレンマがあります(笑)必要なことはきっちり伝える!例えばお経の説明、法要に関してはもう少し丁寧に内容や意味を伝える、その時間を供養なら供養として、祈願なら祈願として共有する、一体感を出せるようなものにしないといけないと感じました。
昔から勉強と修行、これを本宗では「行学の二道に励むべし」というお祖師さまのお言葉あるように僧侶として必須のこととしてきました。修行だけ、お経だけたくさん読んだりしてもその理解に、伝えることにも学んで精通できるようにしなければ一人前とは言えませんでした。なので私はまだまだ小僧です。藤井8冠の言葉で今の実力は「森林限界(富士山の頂を目指す途中の現在の立ち位置)にいる」とご自身の棋力を表されていました。これは5合目付近の樹海の切れ目ということだそうです。私は海抜0メートルから出発してようやく森林が見えてきたくらいでしょうか。道は甚だ遠く、険しいです。自分の力不足を感じながら、初心に帰るきっかけのお言葉として受け止めています。