節分に向けての札書きが進んでいます。毎年お申込みを頂いてご家族の皆さんの安全を願い、経文の入ったお札にお名前を書き入れています。
お子さんが生れたり、あるいは送り出したりして家族構成も5年前とは変わってきています。また当日参拝される方の数も年々少しづつ減ってきています。先代住職が昭和56年より夜7時に水行、そして祈祷する節分会のスタイルになってから長年その状態でした。
忙しい人が増えていわゆる現役世代の方の参加が減ってきています。親が信仰しているからそれでいいという声をきき、家族で代表者だけが参加でいいという形にしてしまっている反省を踏まえて今後の節分会の在り方を考えています。どうしたらにぎにぎしくお祭りにできるか。一人一人に「祈る」ことのすばらしさ、形にこだわらず自由に手を合わす、いやそこも宗教という言葉が思い浮かぶので、若い世代には嫌がれる?かもしれない。よりよい生き方、苦しみや悲しみもあるけれどちょっとは楽しいこともあるよね、という気持ちの中で神仏に向き合うようになれればいいなという、、、かなり大雑把なイメージを持っています。
神仏に祈ったから、死ななくなったという人はいません。また神仏に祈ったからケガや病気をしなかったということもありますが、それも100%ではありません。生老病死の輪廻の中に生きているわたしたちのことですし。じゃあ、なぜ祈るのか?そこにはみなさんそれぞれに答えがあります。
なんとなく親が祈ってたなーでもいいし、そういったきっかけがあってやがてそういう心が養われていく、そういう側面もあるでしょう。あるいは病気や大けががきっかけで心の支えになっている場合もあるでしょう。日蓮聖人は「病によりて道心は起こり候か」とあります。私もそうでしたが苦しい、痛い、もういやだーとなった時に神仏にすがることは誰しもがあることです。祈る気持ちになるには幸せ絶頂の時よりもどん底の苦しみと思っている時の方が手を合わせやすい人間の性なのかもしれません。
みなさんがお持ちになるお札がご家庭にあってこれを目にするたびに、今その願いにそって生きているかな?と自問するきっかけになればと願い筆を進めています。