今日は朝のお堂は6時の時点で6度でした。手足の指先がかじかむような寒さで7時過ぎには雨から雪へと変わりました。ちょうど完成した七面堂の手前にはしだれ桜が2割咲きくらい開花しており、雪が舞う不思議な光景でした。
お彼岸最後の日、智慧については説明不要でしょう。文字通り暗闇の中に光を見出すように、つらいときの薬のように、現状を良い方向に変えることのできる道理のことです。今日はたまたま法事があり、年回供養をおこないました。寒いお寺で風邪をひかれてはと急遽ダルマストーブを4台用意しました。お経をみなで唱えつつ、お題目を唱えつつ、故人への祈りを捧げます。できることといったら故人のことを思い出すことが一番なのでしょうが、行動をすること、つまり法事を営み、供物を生きている人に差し上げるように準備をして、そして法味を捧げる、手間暇をかけてでも恩に報いることが尊い浄行と感じました。
智慧とはその背後にある道理を理解することですが、果たして100%理解するものなのか、ふと疑問に思いました。とりあえずわけがわからないけどやってみる、そうしたら気づくことがある、、、こともあります。智慧とはそこを理解しようと試行錯誤することも含まれるのではないか、そんな風に感じました。だからお墓参りも、お線香を供えることも、仏壇で手を合わせるのも、供養という行動の道理を理解する一助になるし、それだけでは完結しないものでもある。なんだか答えのない迷宮に入り込みました。
亡くなった現実、それを受け入れていく道理を見つける方法として3年、7年と時間をきざむ供養は存在するのだと感じました。またそれは故人の遺志を掘り起こすことでもあり、過去とつながる大事な時間だと思います。一人で生まれ、一人で育ってきたという人ならば恩義は感じないかもしれません。しかしだれかしらのお世話になっている、だれかしらの先祖さんがいなければ今の自分はない、そうした部分をおろそかにしてはいけないと思います。