法事の席でのお話です。昨年11月に拙寺で行った団参で池上本門寺(東京)にいきました。団体旅行(日帰りですが)ができてよかったので、今年も企画したいですねと総代さんと話していました。
人と人が集まる場所にぬくもりや出会いが生れます。心を通わしたり、こんな人だったのねと発見があったりします。やはり対面は人間生活には大切な時間と場所であると確信しています。懇親ができる場所、それが思い出になっていきます。
AIの発達で、やがて故人の思い出や話し方、映像などを覚えたものが携帯などで見れるようになるかもしれません。そもそもAIは共感と肯定から会話を始めることができるので、そうした故人とのつながりができるのなら素晴らしい技術かもしれません。携帯に依存した生活ではますます人と人との距離は離れていくことでしょう。
AIで作り上げた故人が残るとしたら、人は死なない存在(データ上の存在として)になるかもしれません。しかし現実の私たちは肉体は衰え、怪我や病気が起こります。そしてこのAIの発展は生きている私たちと魂の世界にいる故人たちという境界があいまいになる時代がくることを示しています。
生きている側が悲しい気持ちを受け止め、思い出にひたり、前を向いて生きていこうという段階が機械によって入れ替わることができるのでしょうか。向こう側(魂の世界)にいる方たちにできることはいったいなにか。それが法事という形でここお寺で集まることで共有が生れ、連帯が生れ、AIの知らない(未入力)の情報が出てくるかもしれません。
祈りということがある世界、それがあちら側(魂の世界)と別れているからこそ、成立するのではないでしょうか?故人がいつまでもいる(AIで制御された場所)としたら供養の意味はどう変わっていくのでしょうか?生きるとは死ぬとはそうした意味が機械の発展で書き換わる可能性が待っています。