今朝も考え事をしながら朝勤に向かうと、心はざわついたままでした。あの人の案件はこうしよう、これにはどう対応するか、などなどいつまでたっても答えがでてこないので心はざわついたままです。
そうしたまま仏さまに向き合うと、お経中にもその思いや悩みがむくむくと頭の中にでてきます。当然集中できないので気が散ってしまいます。「散心の読経」を強く戒めているのは仏様に向き合うことが難しくなるからでしょう。
ふと思い出すのは「鳥や虫、草花はお互いの意思疎通はできるけど、悩みを抱えて生きているわけではない」ということです。もちろん食べ物がなければ苦しい思いをするのかもしれませんが、ずっと「食べ物がない」と悶々としているなら、さっさと探しにいくでしょう。
頭の中の想念はすぐ答えが出て、現実世界で反映されません。あくまで「あれやこれや思い巡らせている」だけ、です。考えるだけ無駄とわかっていても昔より心がざわつくようになってしまいました。水面に落ちるしずくは波を作りますがやがてきえます。私の「一見くだらない想念」も広い水面には波風を立てることはできません。私の心は常にそういう状態でいられるよう、ざわざわが訓練させてくれているのでしょう。